新聞記事等
人間に熱き男、藤岡敬大の講演・新聞記事を掲載しました。
倒産体験から伝授
磨けビジネス感覚
(河北新報 2003年12月2日夕刊)
誰にもあんなつらい思いはさせたくない-。その一念で会社倒産の体験を語り聞かせている男性がいる。「社長塾103の会」を主宰する利府町の藤岡敬大さん、52歳。「倒産しない会社をつくるには、わたしと逆のことをすればいい」。いまだ不況風が吹く仙台の年の瀬に、藤岡さんのもとを訪ねる相談者が後を絶たない。
「ふざけるな!」
藤岡さんは血相を変え、男性からたばこを取り上げた。
「従業員に給料も払えないヤツに、たばこを吸う資格があるか!」。神妙な顔つきに変わった相手は、福島から来た50代の経営者。ロコミで藤岡さんを知り、経営難の打開策を見いだそうと仙台に相談に来ていた。
「自分も昔はあんなでした」。相談を終えた後、藤岡さんは振り返った。
塩釜市生まれ。会社勤務を経て1978年、26歳の時、地元で水産物卸売りの会社を興した。5年後には自社ビルを建設。一時は年商28億円を数えた。しかし、まさに経営が順風満帆になったとき、自分の内面に危機が忍び込んだ。
外車を乗り回し、月100万円を超える小遣いを手にブラブラ。営業も経理も社員に任せ、帳簿を開くこともなくなった。
「一言で言えば放漫経営。気付いたときには手遅れだった」
1991年、会社は倒産。ビルはもちろん自宅も失い、一家五人でワゴン車生活を強いられた。
「自業自得とはいえ情けなくてね。自殺を考え青森の恐山まで行きました」と藤岡さん。それでも「『大変だろう』と缶詰をくれた人や、お金までくれた債権者もいた。恩に報いるためにも、もうー度頑張ろうと思ったんです」
再起の一歩は往み込みのマンション管理人だった。狭い部屋に家族五人が折り重なるように眠った。次の一歩は海産物の行商。世間の冷たい視線に絶えながら、根気強く営業を続けた。
そして1998年、再度起業。順調に商売を広げ、現在は化粧品販売や牛乳の宅配など三社を営む。
「多くの人に迷惑をかけた罪滅ぼし」。そう語る藤岡さんが103の会を本格的に始めたのは2001年。評判は口コミで広がり、これまで全国170人の経営者らが加盟。会員には月1-2回、「経営の心得103ケ条」と題した独自の経営語録を送っている。
<優れた社長は部門業績の不振を自分の責任と感じるが、愚かな社長は部門の長に責任を転嫁し、自らは考えようとしない>
<自社の商品は社長が売れ。営業部門に任せるのは怠慢>
<手形発行は会社を倒産させる唯一の資金繰り。どんなことがあっても振り出すな>
経営者に対し厳しい姿勢と強い意志を持つよう求める言葉が並ぶ。
「すべて実体験から学んだこと。経営者自身が変わらなければ会社は変わらない」と藤岡さん。次々舞い込む経営相談に、真剣に向き合う日々が続く。
なぜか地元からの相談は少ない。「宮城の人はおとなしくて、人から学んで前に進もうとする姿勢が感じられない」と苦言を呈する。
「社長の仕事は社員教育に尽きる」
中小企業経営者を支援する社長塾「103の会」埼玉県事務局設立の記念講演会(埼玉新聞社、e-エ房後援)がこのほど浦和区の埼玉会館で開かれた。司会の藤岡敬大会長(53歳)が自らの事業の成功と失敗、再起の体験を語り「倒産しない会社をつくるには私と全く逆の方法をとれぱいい」と参加者にげきを飛はした。
藤岡会長は、26歳で宮城県塩竃市に起業した海産物卸売会社を初年度で年商5億円の会社に成長させた。「脱サラし、ローンを抱え、所持金は5万円。一日一回の食事が妻と交替で一日おきになるほどの極貧生活からの成功だった」
五年後には自社ビル建設、年商28億円。しかし「外車を乗り回し、いい気になって高慢な態度をとり、資金繰り、経理を部下に任せていた結果、取り込み詐欺や社員の使いこみなど全く気付かなかった」。二男、三男の事故など不幸も続き公私ともに生活が崩れ、平成3年に倒産。一家でワゴン車生活を送るほどにまで転落した。
当時を振り返り「自殺しようと青森県の恐山にまで行った」と壮絶な体験を告白。その後、マンション管理人の職を見つけ、地道にワゴン車での海産物を売り、破産から7年後、現在の大通グループを設立した。
藤岡会長は「社長の仕事は社員教育に尽きる。社長室は不要。自社の商品は自ら売れ。会社を倒産させるのは危険な資金繰りの調達法。どんなことがあっても支払い手形は振り出すな」など、具体的な自流の経営心得を披露した。
元気な会社訪問
(漁火新聞 第71号 1996年6月1日発行)
倒産は自分の責任
喧嘩をして負けて帰るな。そう教えた親父は自分が小学生二年の時に亡くなりました。そのためか、曲がったこと、常識外れた事は許せません。時には上司に手を上げ、いくつもの会社を辞め、23歳で仙台中央卸売市場の会社へ就職しました。
文句は言うが仕事も人一倍やる。赤字続きの会社を黒字にし、2年後にはすでに取締役となりましたが、仕事をしないゴルフ好きの専務に腹が立ち、26歳で独立しました。たちまち売上を仲ばし、5年後には自社ビルを建てるまでになりました。商売とはこんなに儲かるものかと思いました。
秋田県、岩手県、山形県、福島県にも支店をつくりましたが、外車に乗り、酒は飲む、遊ぶ。自分で数字(帳面)を見ない。面倒くさいことはしない。社員をどなりつける。人の話は聞かない、関係ないお客は蹴飛ばす。そんな社長になっていました。その結果、売上は落ちる。社員は使い込みをする。架空売上を立てられる。売上の貸し倒れはある。そんな経営状態のところへ、二人の子どもに事故が起きました。
最初は三男が二歳の時、家は新築でしたが一人で遊んでいるうち、風呂の熱湯の栓を開けてしまい、大やけどをしてしまいました。幸い悲鳴を聞いてかけつけた長男がとっさに水をかけ、生命は款われましたが、本当に生きるか死ぬかの状態でした。
次は次男、小学校一年の時、三メートルの塀の上から鋼材の積んでいるところに落ち、後頭部を陥没させる事故にあいました。医師の診察は死ぬか植物人間になるか、というものでした。
今となってみると私に転機を与える事故であったと思いますが、会社の状態が悪くなっていましたので、平成3年7月ついに倒産してしまいました。自社ビルをはじめ取得していた不動産五ヵ所を手放し、借金とともに残ったのがワゴン車一台。それが家族の生活の場となりました。
しかし、夜逃げなどせず、債権者会議も開き、夫婦で一軒一軒債権者を回りました。
マンションの管理人から再出発
商売した人はどうしてもまた商売をしたいと強く思います。しかし、倒産した後も俺は杜長だったという思いを一度捨てないと再起は難しい。
取り敢えず屋根のついている家、風呂のある家、台所のある家が欲しくてマンションの管理人になりました。2Kの狭い部屋で私と妻は廊下に重なるように寝ました。そこでは「管理人のおんちゃん」と呼ばれる。今まで社長だった自分がそう言われることがつらいが事実として受け止めないとやっていけない。私はマンションの管理人となって、どぶ掃除、ゴミ拾いをやり、完全に二等兵になる事ができました。
倒産から半年後の平成4年から、海産物を売る仕事を始めましたが、あの倒産した藤岡さんですかと、最初は相手にもされませんでした。しかし辛抱強く営業に回り、基礎をつくっていきました。
倒産を体験した者として、現在社は103の会(倒産の会)をつくって、倒産者、赤字経営者の再起の相談にのったりしていますが、夫婦仲の悪い人はまず駄目です。私の場合本当に妻が協力してくれました。
日本一の牛乳屋目指す公威君
毎朝三時起床、公威はネクタイを締め、牛乳一番屋と書いたユニホームを着て、牛乳配達に回ります。
単なる配達貝ではありません。一軒一軒「おはようございます。牛乳届けました。ありがとうございました」と必ず玄関前できちんとお辞儀をし、心を込めて挨拶をします。
公威は例の事故で学業はいつも下から五番以内。字も満足に書けず、読めず、話せず、仕事につけば能率が落ちると断られ、世間から相手にされません。
この子をなんとかしなければと真剣に考えました。そこで東日本ハウス創業者中村功さんの著書『思う存分生きてみよ』を読ませることにしました。分からないところは何回も説明、10回読み終わったところで感想文を書かせました。まともに字も書けないと思っていた公威か原稿用紙3枚も書いてくれたのです。
『戦って勝つためには社会人としての礼儀、挨拶が大事だと分かりました。厳しい訓練はいい事だと思います。「石の上にも三年」この言葉が初めて分かりました。五年後の自分を信じつつ、夢を語りたいです。』
これには驚きました。まともな文章です。字も書ける。大事な点を良く理解している。家族みんなでコメントを書き励ましました。
本の読み方として、これと思う本を何回も読んで自分のものにする肌の大切さを感じます。
そこで公威の仕事に牛乳屋を選びました。私も毎日3時に起きています。この子を教育できれば、どんな者でも教育ができるという自信があります。ですから私は問題を抱えた若者を教育する「敬大塾」を開くことを考えています。
有言実行
倒産してとにかくいろんな事が分かりました。今までと反対のことをすればいい。それが経営計画書となっています。私は有言実行タイプ。今49歳ですが、60歳までに10の会社を設立します。
私の経営計画書は中村功会長やピコイの近藤建社長と出会う前に作り上げたものです。本を読んでよくここまで似た人がいると思いました。
一、我が社の経営の基本は、徹頭徹尾「お客様」にある。
二、常業の最大の対応は「年中無休24時間受付」である。
と続く経営方針は26項目あります。これらを実行することで目標を達成していきます。